「人生の選択には正解も間違いもない」
私はこの言葉を何度も噛みしめてきました。
仕事でも、家庭でも。
がんの診断をするとき、「この結果を聞いて、この人の人生はどう変わるんだろう」と思う瞬間があります。
一枚のプレパラートに、その人の未来が詰まっている。
けれど、その先の「生き方」までは診断書には書けません。
母としての私は、子どもを起こしそびれて宿題を忘れさせた朝にすら「これも天からのギフト」と言ってしまいます。
人生の中で起こるすべてのことは、私たちに何かを気づかせるために起こる。
よりか先生そう思うようになったのは、病理医として無数の「生と死の断片」を見てきたからかもしれません。
手術の結果、再発、転移、延命、終末期。
医学的には「経過」だけれど、そこにあるのはひとりひとりの物語です。
「もっと早く気づけばよかった」
「どうして私が」
そう呟く声を何度も聞いてきました。
でも、細胞は役割を果たしているだけです。
分裂し、修復し、終わる。
その営みの中に、誰も悪者はいない。
生きているということは、細胞が今日も働いているということ。
心臓が止まらず、血液がめぐり、酸素が細胞のひとつひとつに届いている。
それは、奇跡そのものです。
私たちは「病気=悪」と思いがちですが、病気は、命が何かを伝えようとしているサインかもしれない。
それに気づけた瞬間から、人生の見え方が変わります。



がん細胞を見ながら、私はいつも思います。
「この細胞たちも生きたいんだな」って。
がん細胞は欲のように増えて、栄養を奪うための経路を確立し、さらに自分の居場所を広げて、最後は自分の体ごと壊してしまいます。
その「もっと、もっと、もっと!」という衝動は、人間の欲とも似ている気がします。
新しい服、ハイブランドのバッグ、綺麗で広い家、もっと認められたい、もっと愛されたい。
その「もっと」が、生きる力を与えるときもあれば、自分を苦しめることもある。
がん細胞は「今ある環境では満足できない」と叫びながら増え続け、やがて自分を滅ぼす。
それは人間にも通じる物語です。



だから私は、病理医でありながら、いつも「生き方」を問われている気がします。
死を考えることは、生を考えることです。
終わりがあることを知らなければ、今を大切にはできない。
病気を告知された時、余命宣言を受けた時、「もっと生きたかった」「もっとしたいことがあった」そう思わなくて良いように、日々を生き抜くことはもちろん大切です。
でも、もっと大切なのは、今この瞬間、心臓が動いているという事実に気づくことです。
- もっと生きて何がしたかった?
- 何を求めていた?
- あなたは今までどう生きてきた?
- これからどうしたい?
- そのためには何が必要?
胸に手を当てて、これらを問いかけてみてください。
そして、問いかけている自分の心臓が動いていることを感じてください。
涙を作るのも、その涙を拭う指を動かすのも、あなたの身体の細胞のひとつひとつが働いているからです。
私たちは、今、生きています。
私の仕事は「病気を見ること」ですが、「命の営みを見つめること」だと思っています。
プレパラートの上にある小さな細胞たちが、今日も懸命に生きている。



その姿に、何度も何度も、心を打たれてきました。
命は、儚くて、強くて、美しい。
そして、どんな命も例外なく、「生ききる」ために存在しています。









